松岡正剛講演「読書とは何か」

本は書き手と読み手がいる。
多読術 (ちくまプリマー新書)
 そのなかにエディターシップ、版元、印刷屋…があって本が出来上がる。本を読むとは書き手からスタートしたものがある。読者からみるとプロのようにみえるがそんなことはない。
松岡自身エディタ、読み手、書き手の三役をやるとそれほど違うものでもない。書き手は最初の読み手である。書き手はそれなりに読み手であろうとして書く。 まず最初は複合化されたひとつのモデルである。そこにエディターシップは入っている。とくに漫画は編集者がいない限り書けないしくみになっている。ほとんど共作になっている。
書き手のコンテンツ、内容はある構造に置き換わる。書きたいことは書く。読みたいことは読むが、打ちっぱなしのブログとは違い、 何かの「構造」本の構造が出現する。目次。目次がつく。チャプター。そこに構造という柱が立つ。読み始めごとに本が進んでいく。
【目次読書法】中見出しというのがあって、 忙しい人、本が苦手な人には目次読書法をすすめている。5分でいいから目次をみよ。こういうことなのかー、と見ていく。知らなくてもいい。知っているものがあれば、 目次の提起した図形、みたいなものが頭に入ってくる。その入ってくる部分がエンジンになって中身が見えてくる。本はエディターシップによって、ある「構造」に向かうようになる。
一冊の本は単なる読書、ではない。本との関わり。必ずしも難しいものではない。私たちは服を着る。だいたい買う。そのときに自分ににあうかどうか、何の目的で買うか。着るか、を想定する。毎日それを着る。次に何を欲するかを自分で選択するようになる。
食事もそう。 食べる行為とはありきたり。だが大きな行為。豚骨ラーメンは朝から晩までは食わない、でも、豚骨ラーメンを食べるために、別の物を食べていたりする。
そのように、本も作られている。沢山の人に読んでもらいたい。営業も販売も書店員も書店もそう考えている。本を読むというのは全てと関わっている。そしてそれのほうが面白い。一冊の豚骨ラーメンに出会うためには、他の物を摂取する。
ヴァレリーは「一冊の本に出会うことは雷鳴を受けることにほかならない」といっている。

ポール・ヴァレリー『テスト氏』1934 野田書房・1939 創元社・1980 福武文庫 他 Monsieur Teste 1896 粟津則雄 訳
だが書店界は残念ながらそうなってはいない。本を読んでいる行為は中継もできない。これだけケータイだのPCだの発展していると、読書をストリーミングさせることは難しい
読書は読んだ瞬間に頭の中に入っていくと考えている。だから中継できない。 でもそうではない。読書は身体知であり、パフォーマンス、アフォーダンスである。 棚においてあるところから、そこからすべて読書なのだから、それを視覚化しようと、テレビで読書の番組をたのまれる。ほとんどないが、 …しかしテレビマンは読書が欲望の対象ということがわからない。 ラーメンの撮り方。麺の湯がき方。それと同じような、 本のめくり方。僕は見たい。本をどんなによんでいて、なんでたのしいのか、だれも知らない。本は知的なものである。といっている間に、読書という方法がどんどん謎のものになっていっている。勿体無い。
本をフードのように、モードのように取り戻そう。
本は良薬にもなる。毒も持っている。これを大事にしないといけない。毒キノコが混じる。うまいものは賞味期限がある。
でも、本はなんか衛生無害…無害?で、非常に貴重で高級で知的とか考えられている。ダメなものは排除すれば済む、と考えている。悪書追放とか昔にはあった。
清濁併せ呑むものであるはずなのに、…いまは純文学のところにポルノグラフィなんてない!古典のところに三島由紀夫川端康成が入らない。芥川龍之介太宰治は70%古典ですよ。なら一緒に並べるべき。 いろいろ理屈はあるけどデジタルブック時代なら検索可能なのだから、ノンリニアにすればいい。でもそれをしない。
 本は毒でもある。薬でもある
松岡正剛の書棚―松丸本舗の挑戦
今の松丸本舗での特集は「男本、女本、間本」無茶苦茶なタイトルでしょ?でもどんな本も…ここには無茶苦茶に混ざっています。でもそういうことをしてみた。本は…読書は、本が出来上がるプロセスでもあるということを話したが、一冊の本は他の本とつながっている。このシンプルなことが、「業界」では忘れられている。大問題だ。
一冊の本だけを取り出して読書感想文。これでいったいなにをするのか。
サマセット・モームとか司馬とか素晴らしい読者モデル。みんなは作家だと思っている。でも、彼らは素晴らしい読者。一人ひとりが掴みかかるような、
つまんない本は7割あります。いいんですよ、つまんなくて(笑)3割出逢えたら良いほう。
 そういうことをいうひとが見えない。服は見える。映画も見える。スポーツも見える。でも、読者は、そういう姿が見えない。読者モデルがない。
というふうに考えると、書き手と読み手が分離しそこにエディタや印刷屋がはいってきた。書き手と読み手が切り離されてきた。だから本の中身から入ることになる。
しかし読書は認知行為なので、一人がひとつの本を読んでいるということは、全てに関わってくる。過去の歴史が一冊の本となってきている。それが表紙を持って帯を持って、私たちが読んでいる。だから、読み手と書き手が切り離されたことを元に戻したい。
非線形読書のすすめ』(ノンリニアリーディング)というのを朝日新聞に書いた。入試によく使われた、結構難しいことを書いたつもりだが、巧い設問を先生が作ってくれた。 毎年、 自分の文章が使われた試験問題を解いてみると、4割くらい間違える(笑)。
たいてい僕は間違えるんですよ。設問のイロハニ全部が合っているようにみえる(笑)いや、設問として間違ってる、と言いたい訳ではない。
 理解の多様性、読書作文コンクールなかで絞っちゃいけない。 読書というのは中身だけを読めない。どこかでいっぱい他のものとつながる。カントの自同律。読書はモノトーンで読むのではない。思い出したこと、記憶なんかと全部使いながら、読んだほうがうまくいく。 本を読むエクササイズのために、本を読んでいる最中に思い出したことをメモする、そういうのをつくった。自分が向かっている頭から体のコンデションを使ったほうがいい。私は正岡子規や渋茶と塩煎餅で読む。読むときに服を着替える。
 もっとノンリニアに、もっと多層的に読もう。
書き手がいろいろな思いで輻輳して書いているのだから、ちゃんと読もうとしても難しい。吉本隆明と話したとき、「本なんか書けない、苦悩のカスだ」としょっちゅう言う。これを我々は読んでいる。吉本隆明が古臭くたって大丈夫。そういう排泄物と一緒に読む。それを自分のコンデションと組み合わせてよんでいく。
本は読前・読中・読後と組み合わせたほうがいい。いまは読前のことをいった。編集者がいたりとか。
読後。こんなに本がある。あんなに読んだのに、消え去る。じゃあノートをとる?思い出す? 私は二度読んだほうがいいとは思う。ぜんぜんちがうとは思うんですが、ふつうはしない。
【マーキング読書法】もお奨めする。丸や四角、囲ったり、言葉と言葉を繋いだりする。
 何か本を読む時に、読後のことを考える。読前を考え、読後を考える。服だと他の人に会うために着ますよね。本を着脱する。本は重なったり離れたり、嫌いになったり好きになったり、近づいたり遠ざかったり、そういうことをしないと、本は好きになれない。
 読後がみえないのでそれが甘くなっている。 読前と読後のあいだ、読中がそれで充実するのではないか。
本を集中して読むのは難しい。集中力は重要とされているが、いつもはそうはできない。
自分のモードに合わせた、格好良い、可愛い、恥ずかしい、そういう本棚を作ろう。友達が来ると人の本棚を必ず見るじゃないか。その日に限って変な本だったり汚い本だったり前の本棚と変わっていなかったりする。本棚は頭の中が見える、と思われがちだが、それはアイデンティティではない。好きな音楽、食べ物だってアイデンティティじゃない。アイデンティティというのはたいしたことがないと思っている。複数の自分が編集され複合しているほうがいいと思っている。
 それゆえ、たくさんの私になれるような本棚を作るといい。それをいろいろなパターンの日に、自分をテストされるといい。それを数年間やってみた。最終的にぱぁーと並べるみたいなエクササイズをやってみた。面白いことが起こると思う。
 自己と他者、書き手と読み手を一般化するとそうなるけれど、他者は歴史的にもあるのでたくさんある。そのインターフェイスとしての読書行為を深化しないと。読書は自分のなかに訪問先をたくさん作っておくこと。
読書はなかなか明らかにならないものだけれど、書物が世界模型である、世界劇場である、あるいは世界書物である。どんな一冊にも世界がある。これをこのあといくつか申し上げる。
本は【共読】できる。人と読む前に著者と読んでいる、最初から二人。それを広げることができる。吉本隆明の範囲ならいくらでもひろがる。司馬遼太郎でもそう。司馬→坂本龍馬→西郷…なんてかたちに共読
【挟読】はさまってくることを厭わない。一冊の本を読むときに他の本に手に取って戻したり挟み読みをすることを大いにすべき。ノンリニアリーディングのひとつの本を読んでいるときに別の本から「電話がかかってくる」。これに出るべきか。出る。でなくても、その電話のベルがかかってきていることを認識する。厭わない。メモを取るか印をとるか、電話を取るか。つまり、挟み読みをしていく。
自分の裂け目を読むこと。リア王をかいたシェイクスピアのように。裂けたものとして読書をする。情報は裂け目へ裂け目へと進む。
 知覚をする。五感を使う。過敏なところをつくるiPad以降、触知感覚、指先の感覚が復活してきた。これはある意味スゴイことなのだろう。
ただ、実際の本を捲る感覚はとても大事。自分のなかの五感、知覚、そういうのをリアルな本のなかで、いったん取り戻しておいたほうが、電子書籍時代にも面白いことになるだろう。
今日の結論としていいのだけれど、読書とはあらゆる知覚、あらゆる感覚、快楽と繋がっている。だから、そういう感覚とつなげよう。
 書店・図書館との馴染み方を変えよう。これからの書店文化がどうなるか、それは大変難しい。それは読者の側、我々の側…から、書店や図書館を活用できるスキルを「もっと」もたないと
静かな図書館、こっちを見ない書店員の書店。この非サービス的空間に対して読者は何をしたらいいのか。読者側からは自分のもやもやしたものを図書館員、書店員にぶつけよう。
 それに答えたりサービスしたりしてくれない図書館、書店は切ろう。文句をいう。どんどん文句を言えばうまくいく。サッカーのプレイで甘いとブーイングが起こる。本の世界にはブーイングがない。それがいけない。
そして図書館や書店はサービス、マーケティング、データを組み立てないといけない。電子機器、携帯、ICタグの発達、人と「あいだ」、図書館との「あいだ」を別のツールで結びつけることができる可能性が読書は一国の国民文化をささえるもの。
アンダーソンは資本主義が出版文化を作ったと言っている。
定本 想像の共同体―ナショナリズムの起源と流行 (社会科学の冒険 2-4)
ベネディクト・アンダーソン『想像の共同体』1987 リブロポート・1997 NTT出版 Benedict Anderson : Imagined Communities 1983 白石隆・白石さや 訳
プリント・キャピタリズム(出版資本主義)といっている。何が中心にインドネシア等につたわったか、最初は出版物である。それがどういうふうに流れこんできたか。
ピエール・ブルデュー(Pierre Bourdieu)は私がとても影響を受けた社会学者。
資本主義のハビトゥス―アルジェリアの矛盾 (ブルデュー・ライブラリー)
ピエール・ブルデュー『資本主義のハビトゥス』
1993 藤原書店 Pierre Bourdieu : Alegerie 60  1977原山哲 訳
 もし資本が出版を見捨てれば、資本主義は潰れるだろう、と10年くらい前からいっている。もっと予算をつけるべき、国民文化の基本は出版なんですが、ブルデューが正しいのなら、国民文化どころか資本主義が潰れる。出版読書文化と資本。資本と文化をもう一度考えなおさないといけない。
 17世紀に複式簿記、カンパニー、保険が成立し、世界資本主義ができあがった。これがアムステルダム等を経由しロンドンにいき、いわゆるアングロサクソン資本主義ができた。そのときにコーヒーハウス等があらゆる読書文化を作った。このコーヒーハウスはノベリティ、新規なものをつくった。パーティー(政党)をつくった。マガジンができた。スウィフトだとか大作家なんかはマガジンでかいた。そこからノベルになった。この本を購入したいというひとたちが資金を集めて出版を作った。世界はいったんクラブ社会にはいって、世界に発達した。民主主義はあまりでてないが、新しい概念、法概念は「本」が先行した。その本を政治家、演説家が使って現実化していった。出版は国民文化だけではない。資本主義的な基礎を作った。いまは売れ行きのある本だけが並んでいる。それはやばい。 新しい概念がうまれてくるそういうのを並べないとやばい。だから我々が本は面白い、というメソッドを取り戻したい。
Report 2006年12月06日『松岡正剛千夜千冊』刊行記念セミナー「読書の極意
インターネットマガジン[PDF] インターネットマガジン2005年10月号―INTERNET magazine No.129
 世界の裂け目に向かって。