モーリス・ユトリロ展ーパリを愛した孤独な画家@損保ジャパン東郷青

「モーリス・ユトリロ展」
期間:2010年4月17日(土)〜7月4日(日)
場所:損保ジャパン東郷青児美術館
時間:午前10時〜午後6時まで(金曜日は午後8時まで)


サクレ=クール寺院、モンマルトル》1945年
モーリス・ユトリロといえば「エコールドパリを生きた「白い風景が有名なアル中の画家」という個人的な印象でしたが、個人コレクションによる90枚。
損保ジャパン東郷青児美術館は、ジュニアガイドも含め、入ってからのイントロや、年表や地図など細やかで丁寧な展示をしてくれる場所。

 今回もユトリロのみならず、その周りを含めて丁寧に解説してくれる。
ユトリロの母から話は始まる。貧しかった洗濯女ヴァランドン(1865-1938)が見出されたのは、あの貴族画家ピエール・ピュヴィ・ド・シャヴァンヌの邸宅に母の代役で洗濯物を届けたのがきっかけ。そこから彼女の運命が激変的に変わる。 ヴァランドンは、ルノアールドガなどのモデルとなり、数多くの芸術家と恋愛関係となった。そこから見よう見真似で絵を描くようにもなった。ヴァランドン18歳のときにユトリロとは誕生する。美しすぎる母ゆえ毎日モデルや恋で大忙しのママ。祖母と二人きり、ユトリロは外で漆喰を相手に遊ぶことが多かった。
「もし二度とパリから戻って来れないとしたら、どんな思い出をもって行きたい?」「漆喰をひとかけら、持っていくだろうね」「どうして?」「子供の頃、漆喰を集めて遊んだんだ」ユトリロにとってモンマルトルは故郷の街。
 彼の白壁の色は、絵の具に石灰や鳩の糞、朝食の卵殻や砂など混ぜ込んで描いたとか。

 アルコールを知ってからその魔力に溺れてしまい、精神病院に入院する。ユトリロアルコール中毒の対処療法として、ヴァランドンの夫ムジスの薦めで絵を描くことを始める。やがてそれが治療法ではなく彼の生涯を支配される元凶になってしまった。
僅かなアルコールを求めて絵を売る日々。
 初期の「マンモニーの時代」「白の時代」「色彩の時代」と大きく分かれる。生涯かけて多く描いたのは、モンマルトルの風景。ラパン・アジル、ムーラン・ド・ラ・ギャレット、サン・ピエール広場とサクレ・クール寺院。これらの風景を主に絵葉書を元に描いたという。会場にはパリ市内とフランス州の地図があり、彼の絵画の軌跡を辿る事が出来る。
しかし、白壁の色彩の豊かさ、行き交う人々など見るたびに、風景の印象が違うのは不思議。
鉄格子を嵌めた部屋でひたすら描き、清らかな色と整った形を生み出したとは。
誰かのために自己犠牲して生きる事を喜びとして生きるならば、ジャンヌダルクを愛した彼らしい人生かもしれない。

年表で綴られる人との関わりも実は複雑。
 奇妙な三角関係。実の母親シュザンヌ・ヴァラドンの新しい恋人アンドレ・ユッテルとの3人での暮らし。ユッテルは友人で年下でもあった。彼を金を生み出す卵として、活用する。安いアルコール燃料で絵を量産し続けた「貨幣製造機ユトリロ」と揶揄されたのが、とても複雑な感情だ。
 ユトリロは、ただただ、自分にとって神なる母が喜ぶ姿が支えだったのだろうか。ヴァランドンが自分と同じような気質の知人を紹介して、ユトリロと結婚させたのも暗示的ではある。ユトリロのコレクターでもあった12歳年上の裕福な未亡人リュシー・ヴァロールと結婚する。
 絵画に描く人達は最初全くないか後姿ばかり5人いるのが奇妙でもあるが、画面に整然と配置して最も美なる場を再現する。
 
 個人的には《サン=スニ通り モンマルトル》(83)、《モンマルトルのパリ祭》(87) がすき。1945年にはレジオンドヌール勲章を受章している。フランスでは生前から評価されていた 世に残るエコールドパリの有名な画家となった名誉よりも、ただ一人の母に認められたかった男。画家としては幸せだったのだろうか。
 パリの観光絵葉書から生み出されたユトリロの絵は、静かな三次元の夢想する散策を誘う。