束芋 断面の世代@横浜美術館

会期:2009年12月11日(金)― 2010年3月3日(水)
会場:横浜美術館(220-0012 神奈川県横浜市西区みなとみらい3-4-1)

「悪人」吉田修一 挿絵
惡人
三次元にたち上がる物語を二次元の押し花にしていく。
小説の場面を想起される。物語の挿し花。
映像作品は四種四様。それぞれに会わせて映像効果を変えていく。
この展覧会のために誂えたように。
深く深層から咲く花。二次元の世界観が立ち上る。

束芋」というアーティスト名の田端綾子さんは、私と同じ団塊ジュニア。展覧会テーマ1975年生まれの束芋さんが属する世代を、その上の「団塊の世代」と比較して出てきたというこの「断面の世代」という言葉。
そしてタイトルや製作に姉妹の活躍があることを思うと素敵な姉妹だと思う。そして素顔も愛らしいのに、だが、日常を鋭い包丁でスッパリと切断する腕の見事さ。曖昧模糊な日常をスパッと切った面には、納豆にも似たねばりついた日本が見える。納豆太巻き。団地に住む様々な世代、多彩な生活観が入った太巻のアニメはシニカルに見せてくれる。多次元の物語が変容して、昇華した二次元。2009 映像インスタレーション

束芋さんによる紹介より

《団地層》
エントランス「断面の世代」展の目次。個人の趣味によって集められた家具たちはそれぞれの部屋に押し込められ、それらが部屋の所有者のキャラクターを浮き上がらせる。

《惡人》(『惡人』新聞小説挿絵原画) 2006-07 墨・和紙 全点展示公開
新聞小説『惡人』(吉田修一)は人型を丁寧に浮き上がらせる彫刻的な作品だと感じている。文章から立ち上がる空気を本の間にはさんで作る押し花のように、二次元の紙の上に定着させることに努めた。
悪人

《油断髪(ゆだんがみ)》新聞小説『惡人』の登場人物、金子美保がモチーフ。金子美保の人生が物語と交わった断面から、金子美保の見えていない人生を想像し作り上げる。繰り返される断絶を表現したい。

《団断》 団地を上から抉ったような空間構成。抉られた空間の断面から、直列に繋がれていく隣室と、並列に展開するストーリーを覗き込む。抉られた空間は鑑賞者によって補完されることを目的とし、今までの制作にも共通していた、作品と鑑賞者との関係を成立させる。

《ちぎれちぎれ》 入れ子状のいくつもの世界に囲まれて存在する普遍的な個という存在。個を取り囲む世界と比べると物理的には小さい存在である個。しかし、個の想像世界の広がりは物理世界を凌駕する。空から見下ろすような感覚で無名の個と距離を保ちながら観賞する行為は、彫刻を眺めているようでもあり、三次元的空間を与えられながら立ち位置を固定され一方向からしか眺められないジレンマを観賞者に強要したい。

《BLOW》 個の内側から外に向けて発散されるものを表現したい。
血肉のような物質的なものも、愛情や憎しみのような不可視のものも、個という袋に閉じ込められたものが外に放出されるとき、閉じ込められていたときとは違った形に変化し、成長していく。空気や光に触れ、水が与えられ、周囲との関係の中で刻々と変化していく植物に例え、美しさだけでなく、艶かしさや毒々しさも表現する作品となることを期待している。

束芋 断面の世代 Tabaimo

「断面の世代」の作家 束芋インタビュー (2009/10/27)(インタビュー・テキスト:小林宏彰)長文だが、創作の秘密について このインタビューで腑に落ちたので、ここで引用させて頂く。

束芋:「断面の世代」というタイトルを付けたのは、私が思い描く展覧会のイメージを、姉に話したところ、とても的確な言葉で表現してくれたので、このタイトルをつけました。
束芋:私が言う「断面」は、三次元のものを切断したときに出てくる、二次元を指しているんです。例えば、ここに太巻きがあるとします。太巻き自体はとても分厚いですけど、切断面だけ取り出せば、すごくペラペラです。でも、そのペラペラな二次元を見ると、三次元の情報、つまり太巻きの中身を全て知ることができる。私たちの世代の特徴って、そういう「ペラペラなんだけど、全ての要素が詰まっている」ようなところだと思っているんです。
束芋:でも今は1から10まで全てのパートをこなさなきゃいけないことが多い。こういうことで、「断面の世代」は、自分は何でもできると思えてしまう。その反面「団塊の世代」の方々は、細かく分業だった分、しっかりとプロフェッショナルだったかもしれない。たとえばそれぞれが太巻きのネタで言えば「お米」「海苔」「かんぴょう」「きゅうり」である、というように、キャラクターとしての特色をハッキリと持っているのが特徴だと思うんです。
─なるほど。それと比較すると「断面の世代」の方々は、そうしたネタを少量ずつ含んだ「太巻きの薄切り」だと。
束芋:そうなんです。こうした違いから、それぞれの世代で行動の仕方にも差が出ると思うんですよ。「断面の世代」は、集団よりも個を尊重します。集団で行動していても、気に入らないパートナーがいると「私抜けるわ」という選択をする。自分でなんでもできると思っているだけに、「ひとりでもやっていける」と思ってしまう。そういう「甘さ」が、私たちの世代にはあるんじゃないかなと。無理に太巻きになろうとして個をないがしろにするのではなくて、自分という個にとってよりよいと思える方向を選び取るのも特徴のように思います。でも「団塊の世代」は、個よりも集団です。例えば「海苔」キャラのような、太巻きをまとめるリーダー的な存在がいないと、すぐにバラバラになってしまう集団ではあるのですが、まとまったときの瞬発力や力強さはすごい。常に集団という単位の中で、自分はどういう行動をすべきかを考えるんです。そういう違いがあるような気がしますね。
束芋:今回の展覧会を行うきっかけになった『GOTH -ゴス-』展(2007-2008年、横浜美術館)に出品したとき、ある年配の記者の方からいい加減な質問をされて腹が立ったことがあるんですよ。でもそのとき、私自身も彼にはっきりと反論できなかった。どうにかして、自分の怒りを言葉にできないかなと思ったことが、今回の個展につながりました。なので、ある意味でその人の存在って大きかったのかなって。
─それはどんな質問だったんですか?
束芋:展覧会の出品者は、私と同じ30代前半のアーティストがメインだったんですね。彼らに共通していたのが、自分の肉体だとか手の届く範囲の事象を通して、広い世界につながろうとする感覚でした。でも、それによって表現しているテーマは、生や死といった、非常に普遍的なテーマだったんです。その記者の方は、表現方法は新奇に見えても、昔と変わらないことをやっているだけなのに、なぜこんなに大々的な展覧会をやる必要があるんだ?という質問をしまして。私はその言葉にすごく違和感を感じたんですよ。私たちのアプローチの仕方はこんなにも違っているのに、なぜ一緒だと感じるんだろうって。
そして、しばらく考えて出した結論は、私たちの世代は、そのアプローチの仕方を重視するということなんです。「団塊の世代」の方が「結果」を重視しているとすると、私たちはその「過程」を重視しているということが重要かもしれない。同じような目的を掲げているので同じに見えてしまうかもしれないけれど、見せたいのはそこではない。
─自分といろいろなことを共有している人と話すのは楽ですが、そうじゃない人と話して気づかされることもありますよね。
束芋:そうですよね。私はどちらかと言えば腹が立ったときの方が前進できるんです。なので、ムカつく経験をすることも重要だなと。
先日も、姉から送られてきたメールに、「あなたは自分の思い込みで物事を決めつけて、勝手に怒ったりしてるんじゃない」って書いてあったんですよ。それを読んだときは「そんなことない!」って思ったんですが、よく考えてみると、今回のテーマってそれなんだな、と気づいたんです。私が思い込みによって突き進んでいることが重要で、それが「断面の世代」の特徴なのかもしれない。ムカっとはしたんですが、そのおかげでテーマがまとまってきた。自分の持っている負の部分って、じつは重要な要素を含んでいるんです。人から指摘されたり気づいたりすれば、それを反映させることで、作品をより手触り感のあるものにできるんですよ。
横浜美術館って、写真ではそんなに伝わってこないんですが、実際に足を運ぶと本当に広いんですよね。
束芋:そうなんですよ。たぶん、日本一使いにくい美術館じゃないでしょうか。この空間の広がりを、きっちり把握して制作しなきゃいけない。でも、そのやりにくさがむしろヒントになって、作品の形態につながってきているんです。今後の人生でもこんなに難しい経験はそうそうないだろうけど、クリアしたらかなり強くなれるんじゃないかと思います。
─空間のあり方って、お客さんの体験の仕方にもかなり影響してきますよね。
束芋:まず、美術館を入ったところにあるホールが、すごく広がりがありますよね。あそこをしっかり演出しないと、展示の世界に入り込んでもらえないんです。自分の作品を単に観てもらえればいいというのではなく、例えば待ち時間が長過ぎても問題だし、逆に長時間並んでから見てもらった方がいい作品もある。そうしたお客さんの状態なんかを想像しつつ、自分が見たいと思える形態を探しているところです。
最初に思い描いていたビジュアルは、ほとんど残らないんです
束芋さんの作品を拝見していると、よくハッとしたり、ドキっとしたりすることがあるんです。それは言葉で説明できないような驚きです。例えばこの『油断髪』であるとか。作品はどんなふうに発想をされているのでしょう?
束芋:私自身、出来上がっていくのが楽しみなんですよ。作品を組み上げるまで、ひとつひとつの要素は別物として存在しています。髪の毛は髪の毛、家具は家具、手は手というようにバラバラに描いていって、画面上でどんな大きさで使うのか、どんなふうに色をつけるのか、行きあたりばったりで決めていきます。今回は5点の映像がありますが、似たような印象を与えたくないので、まず色の付け方や空間構成、展開についてさまざまなタイプをピックアップし、個々の作品にルールを設定するんです。そこに私自身が新たなルールを付加していきます。最後の最後までどんどん変化させるので、最初に思い描いていたビジュアルは、ほとんど残らないんです。それが私にとって驚きがあり、楽しめる作り方なんですよ。
─そうして出来上がる束芋さんの作品には、どれもご自身が「ねっとり感」と表現されるような、独特のナマっぽい手触り感がありますよね。これはどうしてなんでしょう?
束芋:グラフィックデザイナーの粟津潔さんが「今の人たちは、光の色しか見ていない。光の色と、印刷の色は違うんだ」と。それを聞いたとき、私たちは粟津さんの言う印刷の色のような、実際に触れることができる手触り感のある色に飢えているんだって気づいたんですよ。
─ただ、制作にはコンピューターを使われていますね。
束芋:制作をする上で、コンピューターは必要になってくるんですが、アナログ的な使い方からは離れたくない。できあがったルールを自分の意志ではなく、コンピューターによって壊す。それによって、頭の中では絶対に組み合わせられないイメージを提示することができるんです。花は花で描き、足は足で筋肉や骨を緻密に描いて、コンピューターの画面上でさまざまな組み合わせ方をじゃんじゃん出しながら作っていくことで可能になる表現もあるのです。
束芋:今後、同時に新作5作品を展示するようなことはなかなか難しいと思うので、私にとって非常に重要な展示になるはずです。言葉で説明をしようとしてもできないような作品だし、ぜひ会場に足を運んでいただき、体験してみてほしいですね。

康本雅子×Tucker×束芋 ダンス・ライブ『油断髪』
演劇公演 WANDERING PARTY
『total eclipse -トータル・エクリプス-』

1975年兵庫県生まれ、長野県在住。1999年、京都造形芸術大学卒業。アーティスト名は、本名が田端で、さらに次女であったことから「田端の妹」が、略して「タバイモ」と呼ばれていたことに由来する。
1999年、大学卒業制作『にっぽんの台所』が、キリンコンテンポラリー・アワード1999最優秀作品賞を受賞。
2001年には、第1回目横浜トリエンナーレで最年少『にっぽんの通勤快速』を出品。
2002年、五島記念文化賞新人賞受賞、翌年ロンドンで一年間研修を行う。
2002年、サンパウロビエンナーレや、2006年、シドニービエンナーレ、2007年、ヴェネチア・ビエンナーレ(イタリア館)など数々の国際展やグループ展に出品を続け、日本を代表する映像インスタレーション作家の一人として注目を集めている。
2006年、原美術館やパリのカルティエ財団で個展を開催。
2009年横浜美術館にて『束芋 断面の世代』開催。