歌舞伎座 吉例顔見世大歌舞伎 昼 通し狂言 仮名手本忠臣蔵

 昨年 平成中村座公演で初見で気になる歌舞伎演目「仮名手本忠臣蔵」。
歌舞伎座顔見世吉例公演ゆえに最後の舞台を見たいと通り公演を見ることに。
仮名手本忠臣蔵 (橋本治・岡田嘉夫の歌舞伎絵巻 (1))
 何の説明も要らないが、それぞれ形式美と人情溢れる場面、大物役者によって演じられる世界にどっぷり入りすぎて四段目は辛かった。
 五六段目の勘平にツッコミいれながら見ていた。
七段目の由良之助に、天下の仁左衛門人気の意味を知った。それぞれの当たり役を丁寧にこなす演目に江戸時代から人気をキープする理由が理解できたように思う。

浮世絵でも人気の題材として何度も描かれる。
喜多川歌麿「高名美人みたて忠臣蔵 十二段つづき」としたシリーズが出ていたときに歌舞伎を知らないと本当に楽しめない!思ったのがきっかけ。
さすがの立命館 この検索システムは便利なのでリンクを紹介しておく。
 今 平木浮世絵美術館にて12月25日まで展覧会があるようだ。昨年は江戸東京博物館でも開催されたミニ展示。今度は演目と場面がよーくわかった。二倍三倍楽しんでこよう。
 


more楽【小玉祥子】より
仮名手本忠臣蔵」人気の秘密 史実に「虚」の味付け
 歌舞伎きっての人気演目であることから、興行の特効薬の意味で「独参湯(どくじんとう)」と称される「仮名手本忠臣蔵」。11月は東京・歌舞伎座(1〜25日)、来年正月には大阪松竹座(2〜26日)で、配役を違えて通し上演される。人気の秘密はどこにあるのか
 歌舞伎きっての人気演目、興行の特効薬の意味で「独参湯(どくじんとう)」と称される「仮名手本忠臣蔵
 元禄15年12月14日(1703年1月30日)。赤穂浪士による吉良上野介へのあだ討ちが行われた。藩主、浅野内匠頭江戸城高家の吉良に切りかかり、内匠頭は切腹となり浅野家は断絶。翌年に家老の大石内蔵助ら旧藩士が敵を取った。
 事件はすぐに劇化された。決定版が1748年初演の二世竹田出雲、三好松洛、並木千柳の合作「仮名手本忠臣蔵」。名前は浅野が塩冶判官、吉良が高師直、大石が大星由良之助に置き換えられている。
 歌舞伎座では昼の部で「大序」「三段目」「四段目」「道行旅路の花聟」、夜の部で「五段目」「六段目」「七目」「十一段目」が上演される。「大序」から「三段目」は、判官が刃傷に至るまで。切腹する判官から由良之助が後事を託されるのが「四段目」。
 「旅路の花聟」から、話は庶民階級へと移る。塩冶家家臣の勘平は腰元のお軽と密会していて、判官の大事に居合わせなかった。勘平とお軽は、お軽の実家へ向けて落ちていく。
 「五、六段目」はお軽一家の悲劇。お軽は祇園に身を売り、勘平は義父殺しの疑いを受けて切腹。「七段目」は祇園を舞台にした由良之助とお軽、その兄の平右衛門の物語。「十一段目」はあだ討ちの次第が描かれる。敵討ちを中心に据えながら、架空の人物を縦横に活躍させているのが作品の魅力ともなっている。
 歌舞伎座の由良之助 昼の部が松本幸四郎、夜の部が片岡仁左衛門
 勘平は尾上菊五郎。お軽は「道行」「六段目」が中村時蔵
「演じていてこんなつらいものが、何で人気があるのか」と苦笑しつつも、「大序から四段目まで、楽屋もしんとしているんですよ」と話す。セリフのほとんどない俳優に至るまで、緊張感が走るという。感情移入を許す完成度の高さ。人気の理由はそこにもあるだろう。
 塩谷判官は中村勘三郎、お軽「七段目」は中村福助。平右衛門は幸四郎高師直中村富十郎

東京新聞(藤英樹より
<歌舞伎>11月「仮名手本忠臣蔵」 由良之助役の仁左衛門 現歌舞伎座の見納め
 片岡仁左衛門が一日から始まる東京・歌舞伎座の通し狂言仮名手本忠臣蔵」で、大星由良之助(七、十一段目)を演じる。現在の歌舞伎座では最後の由良之助勤めとなりそう。仁左衛門に思いを聞いた。 )
 昨年十月の平成中村座での由良之助、今年三月の歌舞伎座「元禄忠臣蔵」の大石内蔵助、十月の名古屋・御園座の早野勘平、そして今回の由良之助と、ほぼ一年の間に四回の忠臣蔵、由良之助(内蔵助)は三回勤めることになる。「こんなん初めてですわ。でもそれぞれ雰囲気が違うので楽しい」
 由良之助を初めて演じたのは一九六九年七月の国立劇場(当時は孝夫)。以来、通し狂言だけでも主な劇場で六回(ダブルキャストを含む)勤めてきた。今回で七回目だが、仁左衛門は「これまでとは違う気持ちがある」。子どものころから父に付いて遊び場にし、思い出のつまった現在の歌舞伎座で最後の由良之助を勤める感慨をにじませる。
 「若いころは歌舞伎座で由良之助を演じられるなんて考えていなかった」と仁左衛門。初めて歌舞伎座で演じたのは三十六歳。松本幸四郎とのダブルキャストだった。くしくも今回再び、その幸四郎(四段目)とのダブルキャストとなる。
 何度も勤めてきた由良之助は仁左衛門にとって「同じ苦しい役でも、勘平の苦しさより由良之助の苦しさのほうが好き」という。
 由良之助像については「演じ方は変わっても、由良之助がここでどう思うかといった心理のとらえ方は昔から一貫しています。由良之助は、ほかの立役、例えば勘平などとは違う。勘平は役者によっていろんな解釈ができるでしょうが、由良之助は変える余地がない。頭領としてお客さんにもほかの役者にも、重みを感じさせなければいけない役です」
 ただ七段目「一力茶屋の場」では、遊び慣れた粋人としての色気と貫禄を同時に感じさせる演技も求められる。「貫禄をつけようと考えると小さくなっちゃう。あまり計算が先行せず、ごく自然に演じないとだめ。演じ方として武張って粋を出すやり方もあるが、私は父が師匠なので丸く武張らないやり方です」
 最後の見せ場となる十一段目「両国橋引揚の場」は、上手から出てくる形でなく、橋の後ろから出てくる形を取るという。
 「こちらのほうがお客さんに喜んでもらえますから。『歌舞伎座さよなら公演』でもありますしね。やっぱり引揚の場で花道を入るときは気持ちがいいもんです」

仮名手本忠臣蔵由良之助とおかる勘平―団十郎・孝夫・玉三郎
この時代を見ていた人は幸せ者だろうなあ。