名嘉睦稔木版画展〜命の森〜@明治神宮文化館


光が満ち溢れるこの道を大事にしなければいけません。
陸の森と海の森は私達全生命の生存を保証しているのですから・・・

 
 明治神宮の鎮守の森に入ると外と全くの別世界。日曜の朝早く明治神宮に入り参拝してきた。その後に「命の森」展に向かう。
 駅前よりはいくらか涼しい境内の中より一層涼しい。そして別の次元に入るのがこの会場。

 階段を昇って入ってすぐ右のプロジェクターの映像では、彼の創作する過程が映し出される。それを見たら目を疑うかもしれない。
大きな紙の前に当たりを付けていき、何も下書きデッサンなしに 刀一本でひたすら木目を突き進んでいくからだ。
 この人は木版を通じて神様や自然の中にいる存在を
見つけて、一気に捕まえて木に彫り込んでしまうような気迫さえも感じた。

 下描きはせず、墨であたりをつけただけで、版木の上で格闘技でもしているような勢いでどんどん彫りすすめていく。あとからあとから湧き出てくるイメージを「彫り止め」てしまわないと、飛び去ってしまうと本人は言う。月桃紙に刷った白黒の絵に、裏から彩色する。沖縄の和紙「月桃*」だから 裏から水彩アクリル絵具を置いても、すうっと吸い込んで、表に鮮明に色が出るそう。

 沖縄の森や海の神々や生き物が、全て名嘉睦稔さんの脳裏に浮かんでは、彼の腕を通じ、刀を通じ、形を残そうと出て来ているのではないか、神憑りのような仕事に思える。
 目の前に現れる動画を留めようと彫り進めるのだが、それも木版なら反転した画像であるし、まして彩色の時も裏面のままである。
 自分の視覚ではなく、腕の触感なのだろうか。映像だけで想像するだけでも、とてつもない技量だ。

 木彫はやり直しがきかない。「刀画」とご自身で表現されている。手間隙かかる手段を通じて表現する体力の凄さを感じるばかり。

 刀と版木を通じて描く自分の方法は間接的であるが故にこの切った先に自分とは別の力が働くように思う。自分はそれを「刀画」と呼びたい。

 明治神宮での開催を機会にして数多くの外国の人々も目にするだろう。また昨年は海外での展覧会を多くこなしている。
 日本の神々が自然の中に実にさまざまに存在していることを、この版画から多くを教えてもらう。
 日本人は何故自分達で日本文化を正当に評価しないのかと時々思う。海外から展覧会が目白押しで来日するが、海外の日本美術コレクターの様々な作品を見るに付けても、なぜ日本に残らないのか。 名嘉睦稔が残す版画はもっと日本人が大事にして良いと思う。
 日本人は海外の人々の評価で初めて「日本はこんな素晴らしい文化をもっている」という事を気づかされる。いつも見ている、いつも触れている 本当の大切な事に気が付くのが遅すぎる。

 実は「節季慈風」を初めて拝見した。畳では12畳分にもわたる大作は、今回特別に檜造りのイーゼルに載せられて、そっと囲むような形で配置されている。これは画像で見てもその細部にまで宿る自然の生命の素晴らしい営みが全ては尽くせないであろう。実際目の前にしなければ、細部にまで徹底して彫り出され存在する丁寧な画面が わからない。この魅力やこの迫力は、やはり今回の展覧会の醍醐味であろうか。

 この展覧会を紹介してくれて彼女は、初めて出会った絵の中に「風」を見た。そして涙した。
ふと展覧会場の窓の外を目にすると、明治の杜の木々から、その間にありながら異様に無邪気に踊り回る枝ぶりを見つけた。周りの木々の枝は微動だにせず静かにたたずんでいる中で。風は自由気ままに周り、杜の中を駆け巡る。
生き物は、例え植物であろうと非常に活動的である。人間の目はずるいもので、自分が知覚したもの以外は存在しないと考える。しかし、確かに存在する その姿を名嘉睦稔は全てを捉えて、そしてこの版木を通じて私達に知覚できるように見せてくれる。

 今回の展覧会にあわせて多くのギャラリートークや演奏会など様々な企画がされているそうだ。そういうイベントの時を体験されたら、きっと絵も何層にも幾重にも深い味わいが出来ると思う。

BOKUNEN―名嘉睦稔木版画集

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みるやかなや(DVD付)

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 *「月桃」ショウガ科の植物、沖縄ではどこにでも見られる馴染みの深い亜熱帯植物。独特な香りを持つ葉には防虫、防菌、防カビの効用があり湿度の高い沖縄では重宝される。