柿右衛門と鍋島@出光美術館

 磁器誕生の萌芽から成長期、最盛期に渡るまで、出光美術館所蔵品で柿右衛門と鍋島の備前磁器の精華を堪能できる構成。 江戸期の日本には、世界を魅了した誇るべき文化があったではないか。
 出光美術館は見やすく分かりやすい解説をつけ、これだけよくぞ収集。贅沢なまでに充実した内容です。
金曜夜のナイトミュージアムに行きましたが、時間が足りない程。柿右衛門も鍋島も有田も全て佐賀県肥前の地にて磁器が発達した事を知る。なんと凄いのさ佐賀県は。

 特に海外向けとして作製された「柿右衛門」様式はずば抜けて色白で「優雅な染付、華麗な赤絵」それをまさに目の前にして体験できる。

 今まで手本としていた中国さえをも魅了させ、そして東インド会社の船に揺られて、オスマントルコ、ヨーロッパ各国、特にドイツやフランス、そしてイギリスへそれぞれが柿右衛門の白さを再現しようと錬金術のごとく模倣作が見られるほど、愛用されてきた。

 特に鍋島藩は製磁を藩外に持ち出さぬように厳しく規制を行い、その技術力を最高まで高め、徳川官窯として最高の献上品とされた。今回数点に見られる見事さは、確かに当時の人の羨望であったろう。

 この最盛期を迎えた後に、明治時代になると今度は西洋を模倣して取り込む、日本は廉価な模倣品が歓迎される時代へと変わる。 日本ながらのアールデコデザインを提案しつつ、顧客層は世界大戦の渦中にあるヨーロッパからアメリカへと変わり行く。そこの時代の潮流の不思議を感じる。

 「海を渡った古伊万里 -美とロマンを求めて-」著者: 深川正(昭和61年6月)
 鑑賞するにあたり、参考になった。有田焼は明治以降の海外輸出用にさらに変貌を遂げる。この先の流れが「オールドノリタケ」の展示会に繋がっていくのかと思うと不思議な歴史の流れを感じる。香蘭社深川社長の著作で、全てをネットで公開しているのでさらってみた。明治期には有田の地から技術力も官営の支援を受けつつ起業するも消えていった会社もあることを思うと、会社を存続する並ならぬ努力に思いを馳せる。

 磁器の展覧会というのは、図録やポストカードでは 全く分からない
目の前の存在感の凄さをいうのを体感しないとわからないもの。
今回もひたすら焼き物の存在感に圧倒されていたのだった。

 以前は陶片室がどうして陶磁器の欠片ばかりあって と思っていたが、完全形で現存することさえ奇跡に近い器、まして古い窯跡で発見される時の感激は、まさに パズルのピースに当時の製作の秘密を乗せたタイムマシーンのような
ものではないか。
 会場内で完全な形、かけても金接ぎを施して大事に大事に使ってきた姿を見るだけでもう日本文化の精華の素晴らしさに感激を重ねるのみである。

深川氏論考よりまとめ「6. 古伊万里柿右衛門と色鍋島」

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 有田の伝統工芸は、いわば多彩にして複雑をきわめた、多様な芸術美であるが、今まで一般的になされてきた三大分類を説明すると
古伊万里
簡単に言えば古い有田焼のことで、そのあとにつづく柿右衛門系のものや、色鍋島系のものを除く他のあらゆる有田古陶磁を総括した名称と、大きくつかんで考えて差し支えないと思う。ただし学問的な分類としてはあまりにも広すぎる考え方なので、その点はご留意願いたい。有田の無名陶工の力作だと言いたい。ある意味では庶民の芸術の結集とさえ言える。したがって、その絵文様の表現は多彩をきわめている。概して全面模様の多いものも、その特色の一つである。
 さらに古伊万里系の中には外からもたらされた文様の影響がある。まず最初に影響をもたらしたものは、言うまでもなく当時の朝鮮李朝系の一連のやきものである。一本の筆に、染付の呉須顔料を含ませ、素朴な力強いタッチで、草花文様を一気に描き上げているあたりは、今日「初期有田もの」として高い評価を得ており、これも常識としては古伊万里の中に入る。
 次に、文様形状とも古伊万里の中核をなしているのが中国明時代のやきものである。500年前の成化や400年前の嘉靖、360年前の万暦、天啓とそれぞれ各時代の文様が有田の絵文様に直接・間接に影響を与えている。金や赤を豊富に使い、鳳凰あり、龍あり、菊あり、牡丹あり、松竹梅あり、まさに豪華けんらんの名にふさわしい古伊万里の絵文様は、このように中国明の影響が色濃く伝わっている。
 また、長崎の出島を起点とするオランダ貿易も古伊万里の文様に反映している点を見逃すことはできない。江戸の中期、色絵磁器の貿易も最盛期になると、ヨーロッパの王侯貴族たちがそれぞれ好みの文様を指定して注文してくるようになる。折しもヨーロッパの装飾美術は、バロックからロココにかけてであった。この美の一部に日本や中国の色絵磁器が融け合って、東西相互間に密度の濃い交流が行われる。たとえば古伊万里によく見られる「洋風化された草花文」とか「写実ではなくスタイル化された草花文」などは、明らかに相互交流の結果であろう。古伊万里には、そうしたヨーロッパの香りも含んだバタくさいものもある。
 次にあげられるのは江戸中期の元禄風俗を主体にした絵文様である。1670年、つまり江戸中期、延宝年間頃からはじまる日本文化の新しい胎動を、ある人は「日本のルネッサンス」という言葉で言い表わしている。これはこの頃を境にして、次第に活発になってきた町衆文化、または庶民芸術一般のことを指している。ある意味では、人間復興の時代にさしかかったのである。町衆と都市市民群の自立の姿勢は、すでに応仁の乱につづく群雄割拠の頃からその傾向が見られていたが、江戸も寛永、正保の頃になると、町衆は智力と財力を蓄えつつ、それまでの支配階級であった公家や武士の地位にとって代わるとともに彼らの文化を吸収しつつ、芸能・絵画・文学など多方面にわたって町衆独自の庶民文化を築き上げるのである。これが特に日本の絵画美術史上では、画期的な変化をもたらすようになる。
 それまでは、日本画の態様はもっぱら和漢の故事ばかりに由来して、伝統的な因襲的なスタイルのものが多かったのが、ガラリと様子が変わり、庶民の平凡な日常生活や、都市の歓楽境をテーマにした画風が多くなる。この風潮がますますきわまるところ、人間の淫靡な情念や、官能美の追求さえ伴う画面構成となり、より人間的なものが全面に押し出されてくる。これらの傾向は、19世紀になって、世界的にも有名になった日本の浮世絵版画の先駆をなしていくのである。このように古伊万里の概念の中には、歌舞伎役者や美人風俗図や、それに当時の遊里の情景を文様のテーマにとり上げたものもあり、庶民のやきものとして広く内外に愛されていたことがわかる。

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柿右衛門様式
 お米のとぎ汁のような「濁し手」の肌地に、絵はやや控えめに、そして空間を十分に生かし、構図は左右のバランスをいちじるしく欠いてはいるものの、全体としては、そこに見事な調和の美しさを気品高く保持しているというのが柿右衛門様式の特色である。こういうスタイルは、今までにやきものの文様では見られなかったもので、その意味では独創性があり、純日本的なスタイルで、朝鮮李朝系や中国系の影響を受けた古伊万里様式と異なり、後期桃山時代狩野派や土佐派、やや時代は下って俵屋宗達尾形光琳の、いわゆる琳派の絵との深いつながりを見出すことができるのである。
 こういう日本的独創的スタイルを最初にやきものの絵文様にあてはめたのが初代柿右衛門だとする伝説から、これを柿右衛門様式だと名づけているわけであるが、最近の古窯発掘や研究を待つまでもなく、これらの一連のスタイルは、京都との間における絵師や画帳の交流によって次第に有田に浸透していったもので、有田全体の遺産である。ただ古伊万里のような無名陶工や絵師たちの幅広い産物というほどではなく、やや部分的ながらこの柿右衛門風スタイルを、絵の生命とした一群の絵付師のグループが有田で活躍していたことは事実であろう。
 柿右衛門様式は、外国では特に注目され、有名になった。このことについてはあとでまた詳しく述べるつもりであるが、すでに今から90年くらい前、イギリスの日本陶磁研究者が、このような柿右衛門スタイルの美の根元を、京都の狩野・土佐派および宗達光琳派に求めている。
また柿右衛門様式の特色を、ズバリ言って次の3点に要約している点が注目される。
「構成と対比の統一美」
「空間を巧みに生かした美」
「不均衡、不対称の美」

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◆色鍋島
古伊万里柿右衛門様式のものは、当時一般の商業ルートによって市販されていたものであるが、この色鍋島だけは、藩の御用か朝廷・幕府の献上用に作られたものであって、一般には流れていない。したがって前二者にくらべると圧倒的に生産量も少なく、今日伝世品も少ないので古美術界や骨董界では、ずば抜けて高い価格で評価されている。
 鍋島藩が江戸の中期、自藩専用の窯でやきものを焼いたのはご承知のとおりである。、伊万里にほど近い大川内山の秘境に窯を開き、そこで染付だけを焼いて有田の赤絵師に色絵をつけさせている。この御用赤絵師の一人が、今日の今泉今右衛門家である。
 ひと言で言って色鍋島のやきものは、精緻をきわめ、一線一画さえもおろそかにしないで丹念に描く、というところが前二者にくらべ、きわだった差異点。
「形状の流麗さ」
 今日伝世するものから見れば、色鍋島には古伊万里に見られるような大型の壺や皿はなく、いずれも中型か小粒な小品が多い。特に皿の類いにすばらしく安定した形を持っているものが多い。代表的な七寸や五寸の小皿を例にとってみると、しなやかにのびた縁どりの線とそれを支える高台の部分が、見事に調和して、おそらくこの世にある皿の形状では、これが最も安定した形状であるとさえ言われている。全体として調和ある落ち着きを見せつつ、流麗な線の美しさを保っているのが、鍋島の形の上での特色である。
「色の配合」
染付のブルーは別にして、上絵は必ずといってよいほど三色に限定されている。つまり赤と黄と緑である。金を使ったものは絶対にない。
上記の三色を巧みに用いつつ、さらに色の持つ配合と調和の美に心をくだいていることがわかる。
皿の台部に見られる櫛目の高台」
たとえば七寸の色鍋島の皿を例にとると、その高台部に等間隔にきっちりと、しかも精密丹念に描かれた櫛目がある。いずれも手描きのものであるが、最高の名品は、この櫛目が寸分の狂いもなく、等間隔に描かれ、描きおこしと終了の部分が、どこであるかわからないほど精緻をきわめている。この櫛目の狂ったものは規格外品としてどしどし廃棄処分にされたほど、検査は厳重をきわめたと言われる。一線一画をもおろそかにしないという、色鍋島の面目はこの櫛目高台を見てもよく理解できる。

「色鍋島の文様の持つ近代性」
 色鍋島の文様をよく見ていると、その中には驚くほど現代にも通用するモダンさがあることに気づく。
同じ花や葉を描くにしても、古伊万里柿右衛門様式の場合には写生から出発した写実風なものが多い中で
「色鍋島の花や葉はすべて計算しつくされた文様化である」
「空間の処理に青海波を配したり、連続地文の文様を入れたりして、全体として統一的な文様の完成を目ざしていた」すべてに完璧なるものを願った色絵磁器の世界

古伊万里が庶民の姿なら、柿右衛門系のものは貴族や町人の装いであり、残る色鍋島は王家のシンボルであると言われている」